第2講
環境技術としての建築
3.
場所の認識と構築物
3)
ゲニウス・ロキGenius Locii・「場所論」とその問題点
道祖神・塞の神/「西遊記」に見る土地神/風水/家相学/ケヴィン・リンチ/イー・フー・トゥアン
神域や聖域の認定の意識は、それが更に一般化されることにより、すべての土地にその土地固有の「土地神」(ラテン語で「ゲニウス・ロキ」Genius locii=genius 〔精霊〕of placeという)注)1の存在を認めるところまで広がる。かつては(ローマ建国神話のごとく)人間の能動的な働きかけによってはじめて土地に意味が与えられていたものが、いまやそれとは逆に、すでにそこにそなわっている意味を人間が受身的に認知するというプロセスに変わってしまっているのである。それはある意味では、人間の選択行為を合理化したいための「方便」と見られなくもない。しかし好意的に解釈するなら、人々が土地の自然的条件・特性を何らかのかたちで把握し、それを外化(客観化)すべく、「ゲニウス・ロキ」と表現したものだとも言えよう。かつて日本のどこの村や町でも村境・町境などに置かれていた道祖神や塞の神(さいのかみ)の祠はそうした土地・空間の境界認識標であったと言える。「西遊記」では、孫悟空が行く先々の土地神を呼び出して、三蔵法師一行のための便宜を図らせていた。中国伝来の「易学」やそこから出た「風水」の思想、わが国における「家相学」などは、いずれもそうした「ゲニウス・ロキ」の一局面である。実際、土地の特性認識の努力は、人類の歴史すべてにわたってなされ続けてきたものであって、地球環境に関わる自然科学はみなこうした目的のための営みであった。しかし自然科学の方法のみでは捉えきれない様相が自然環境のなかにあることは確かであり、そうした部分については、人々の主観を通して、「ゲニウス・ロキ」というかたちで定着させるしかなかったのであろう。こうした主観で捉えられたものをどのように(我々はロムルスとレムスのように祈祷でそれを済ますわけにはゆかないので、それに代わる何らかの合理的な方法で)対象化してゆくことができるかが、建設者に課せられた課題なのである。¶
こうした主観で捉えられた土地の認識を少しでも合理的に説明しようとして、たとえば社会心理学の分野では、アメリカのケヴィン・リンチKevin Linchのような学者が、都市住民がその住環境をどのように認識しているのかを緻密な調査によって分析し、人々の行動領域やそこに存在する目印となるような物件(「ランド・マーク」land mark)の認知度、あるいは人々の共通の手がかりとなるような場所(リンチはそれを「ノード」nodeと名づける)がどのようなものであるのかを明らかにしている注)2。またカナダ在住の中国系の地理学者イー・フートゥアンYi-Fu Tuanは、「トポフィリア」Topophiliaと題する著作注)3において、人々の場所に対する認識の諸相を、歴史や人類学など様々な分野の成果を利用しつつ、その見取り図を作ることを企て、「現象学的地理学」ないし「場所論」と呼ばれる新領域を構築しようとしている。¶
しかしもう少し厳密に考えるなら、「ゲニウス・ロキ」と、「風水」や「家相学」ないしはもう少し近代合理主義的な「地政学」geopoliticsや「社会心理学」、「現象学的地理学」であってもよいが、ともかくその類の功利的土地認識方法とは、前者があくまでも土地の個別性、唯一性を言うものであるのに対し、後者ではある一定の条件を満たす「タイプ」として類似のものを括りまとめる方向に向かうという点で、決定的に立場を異にしているはずである。だから問題は、われわれ建設者は、そのどちらの立場を採るべきなのかということである。さきに(第1講)では建築を考えるに際しての「タイプ」的思考の重要性を力説してきたが、それは当の建築が置かれる土地・自然に対しても適用されるものであろうか、ということである。¶
この問題については、本講のなかですでに幾つかのヒントを提出してあるはずなので、それを基に、各自判断されることを期待する。¶