第1講
建築の歴史と方法
―ウィトルウィウスからヴェントゥーリまで―
6.
モダニズム以後の建築史学
1)
モダニストと建築史
アーツ・アンド・クラフツ/ゼツェッシォン/オットー・ヴァーグナー/アドルフ・ロース/ル・コルビュジェ/「国際様式」/グロピウスと「バウハウス」/ギィーディオンと「CIAM御用史学」/「空間・時間・建築」/ペヴスナー
19世紀後半の「アーツ・アンド・クラフツ運動」注)1から20世紀の「モダニズム」注)2へと移行する過程で、人びとの過去の建築に対する眼差しは大きく変化することとなる。建築家たちは過去の建築様式を「モデル」とすることを止め、新しい材料や技術に基づく「新たな様式」を創り出すことを目標に掲げる。19世紀末、過去の様式からの「分離・離脱」を合言葉とする、ヴィーンの若手建築家たちの「ゼツェッシォン」注)3Secession運動(「分離派」と訳されている)で、その看板に担ぎ上げられた大御所の建築家オットー・ヴァーグナーOtto Wagner (1841-1918) は、“ARTIS SOLA DOMINA NECESSITAS” (「必要のみが技術を支配する」の意) のモットーのもとに、現代の必要性に合致した「合目的的」zweckmäßigな様式を確立すべきことを説いたが注)4、それはゼムパー的な「物質主義」の再解釈であると同時に、ヴィオレ・ル・デュク的合理主義の拡張でもあった。¶
このような「新たな様式」をという声は、20世紀前半に至るまでのほとんどすべての建築家たちから発せられていたものであった。ヴァーグナー一派の装飾的な手法を激しく非難していたアドルフ・ロースAdolf Loos (1870-1933) も、求めらるべきものが「様式」であることを否定しなかったし注)4、モダニズムの中心人物ル・コルビュジェLe Corbusier (Charles-Edouart Jeanneret, 1887-1965) は、複数形の「様式」の存在を認めることを「まやかし」であると否定した上で、「様式とは、ある時代のすべての産物に命を与え、かつその特徴的精神に由来するところの原理を統合したものである」とし、更に「現代は、日々その様式を固めつつある」と述べている注)5。このことは、いかに彼らが過去の「様式」を否定しようとも、19世紀以来の美術史の様式観に染まっていて、それが「時代精神」を体現するものであると固く信じていたことを示す。コルビュジェがヴィオレ・ル・デュクの「基準線」の考え方をもとに自分の建築の構成法を編み出していたことも、実は「モダニスト」たちが、表向きは激しく批判していた19世紀的思弁に立脚していたことを暴露している。¶
そして彼らの創作の現場に立会い、それを記述し、位置付けようとしていた歴史家たちの場合も同様であって、近代の建築の新しい潮流を最初に歴史的評価の俎上にのせようとしたヒッチコックHenry-Russell Hitchcock (1903-87) とジョンソンPhilip Johnson (1906-) の著作は、「国際様式」注)6と題されていた。ここでは新しい建築の意義は、もっぱらその外見的な様相--無装飾の幾何学的ヴォリューム、水平線の強調、ろく陸屋根、横長の窓、etc.--によって説明され、それがある種の「歴史的必然」に導かれて、世界中のあらゆる地域に共通する「国際的な」様式となったとするのである。¶
その一方で、歴史家たちは、「芸術意思」や「民族精神」といった19世紀的な様式解釈を脱して、より合理的なかたちで「様式」を説明する必要に迫られていた。建築家たちの無邪気な様式観(そこにはゼムパー的物質主義とヴィンケルマン的歴史観とがごちゃ混ぜに混在していた)では、近代とそれ以前との関係をうまく説明できないばかりか、建築教育の中における「建築史」それ自体の意義が否定されかねない状況となるからである。19世紀の間中、「建築史」は欧米の建築家教育のカリキュラムのなかで中心的な位置を占めており、製図の課題では歴史的建築の実測や作図、あるいはそのコピィが重視され、古代ギリシアの「オーダー」などはいつでもフリー・ハンドで描けるような訓練が課せられていた。しかしいまやそうしたフレッチャー的「様式的形態のカタログ」注)7が意味をなさないことは明らかであった。建築史の体系は、すべてがモダニストたちの主張する方向へと「必然的に」収斂してゆく、合理性追求のプロセスとして、新たに組み立て直されなければならなかった。モダニズムを称揚する評論や「近代建築史」が比較的早く1930年代には出揃っていたのに対し、近世以前から近代までを通観するような西洋建築史の出現はそれよりかなり遅れざるを得なかったのである。¶
ヴェルフリンの直系の弟子で、後期バロックの研究からスタートしていた美術史学者ギィーディオンSiegfried Giedion (1888-1968) は、アカデミックな研究活動の傍ら、早くからコルビュジェらをはじめとするモダニストの建築家たちと交友を結び、彼らの活動を支援していた。1928年には、彼らが結成した「近代建築国際会議」Congrés Internationaux d’Architecture Moderne (CIAM=「シアム」と読む)の事務局長を買ってでるほどに深くモダニズムの運動にコミットしている。彼が第二次大戦開戦直後アメリカに招かれて、ハーヴァードの大学院の建築学コースで行なった講義録、「空間・時間・建築」注)8は、近世から近代・現代までを新たな「空間手法」の開発という視点から(建築のみならず都市まで含めて)通観したはじめての著作となった。これはある意味ではモダニズムのための「御用歴史」であると言ってもよいもので、工業化社会の無限の発展を信じる楽天的な近代主義には、現在からみれば当然のことながら大きな偏りがあるし、キィワードのごとくにみえる「空間」という言葉の輪郭がさほど明確ではないなどの問題はあるものの、必ずしも様式史的評価に囚われることなく、歴史上の優れた建築の意義を具体的に説き明かしているという点で、いまなお意味を失っていない名著であるということができる。¶
ドイツで美術史学者として研鑚を積み、1930年代からは英国に渡って、ギィーディオンと同様、モダニズムの運動に関わることとなったペヴスナーNikolaus Pevsner (1902-1983) は、ギィーディオンの「空間・時間・建築」の2年後、中世から20世紀までに至る西洋建築の通史、「ヨーロッパ建築史序説」注)9を刊行している。これはきわめて周到に既存の様式史の区分と位置付けを守りながら、それを「空間形式」の展開として解釈することにより、見事に近代までを語りおおせせている。現在に至るまでこれに匹敵するようなヨーロッパ建築の通史は存在しないため、多くの版を重ね、内容も幾度か改訂・増補がなされてきている。叙述は一見したところきわめて冷静・公平に淡々となされているかに見えるが、実際にはギィーディオン以上に強引に、近代に向かう「歴史的必然」を意識して全体が組み立てられており、その建築の解釈はやや平板である。また従来の建築史叙述と違って、「ヨーロッパ」に範囲を限定するとの意図から、古代地中海世界(古代オリエントから古代ギリシア、古代ローマまで)の建築は前置き程度にしか触れられていない。その結果、18世紀に至るまで西欧建築の中核をなしてきた古典主義に対する評価は、きわめて一面的なものとなってしまっている。しかしこれに代わりうるような簡便な通史が現われていない以上、学生向けの建築史入門解説は、まだしばらくはこれに頼らざるを得ないだろう。¶
Arts & Crafts Movement. 1870年代以降、ウィリアム・モリスWilliam Morris (1834-96)とその追随者たちによって開始された美術改革運動。これが全世界に影響を与え、そこから「アール・ヌヴォ」Art Nouveau, 「ゼツェッシォン」などの運動が起こってくる。日本における「白樺派」の運動も、そこから少なからぬ影響を受けている。モリスについては第5講で触れる。
この運動やヴァーグナーの作品については第5講で触れる。
「現代建築」 Die Baukunst unserer Zeit, Wien 1895
「建築について」“Architektur”, in Der Sturm, 1910 (伊藤哲夫訳、アドルフ・ロース著、「装飾と罪」所収、中央公論美術出版、1987, pp. 93-107). ロースとその作品については第5講参照。
「建築に向かって」Vers une Architecture, Paris 1929 よりの引用。(prof.F訳。原文は以下の通り。“Les «Styles» sont un mensonge. / Le style, c’ est une unité de principe qui anime toutes les œuvres d’une époque et qui résulte d’un esprit caractérisé. / Notre époque fixe chaque jour son style.” ) この本の中でコルビュジェは、ヴィオレ・ル・デュクの名は挙げないまま、 “tracés regulateurs” と題する一節を設け、それがいかにも自分の独創であるかのごとくその重要性を力説している。
Hitchcock and Johnson, The International Style, New York 1932. これは二人がニューヨーク近代美術館MoMAにおける展覧会のために作成した図録をもとにしたもの。この時期、ジョンソンはまだ近代美術館の学芸員で、建築家として活躍しはじめるのは1950年代以後のことである。そしてこの当のジョンソンが、1970年代に至って、こうしたモダニズム的画一スタイルに叛旗をひるがえし、いわゆる「ポスト・モダーン」の風潮に火をつけることとなったのは、歴史の皮肉というべきか。
これはコルビュジェと並ぶモダニズムの指導者グロピウス Walter Gropius (1883-1969) が The New Architecture and the Bauhaus, London 1935 の中で述べていた言葉である。グロピウスは彼が1919年にワイマールに創設した総合デザイン教育のための学校バウハウスBAUHAUS のカリキュラムの中では、「美術史」の課目について、特に「様式の歴史という意味ではなく、歴史的手法や技術について能動的な理解を深めるため」に行なうのだという断り書きを付していた(Programm der Staatlichen Bauhauses in Weimar, 1919)。BAUHAUSについては第13講で触れる。
Space, Time and Architecture: The Growth of a New Tradition, Cambridge, MA., 1941(大田実訳、丸善). CIAMについては第12講参照。
An Outline of European Architcture, Harmondsworth 1943, 45, 51, 53, 54, 57, 58, 59, 61, 63, 64, 66, 68, etc.(小林文治訳、彰国社)。 ペヴスナーは早くから英国の美欝に関心を抱いており、英国に渡ってからはその地での近代建築運動に惹かれ、当時英国のモダニズムを強く支援していたArchitectural Review誌の編集に参加するまでになる。この An Outline の7年前には Pioneers of Modern Design. From William Morris to Walter Gropius, London 1936 (白石博三訳「モダン・デザインの展開」、みすず書房)を発表し、モダニズムをはじめてアカデミックな観点から歴史的に位置付けていた。