第1講
建築の歴史と方法
―ウィトルウィウスからヴェントゥーリまで―
3.
合理主義と「様式」
1)
ロージェとロドリ
ロージェと蓋然主義的合理主義/スフロとサント・ジュヌヴィエーヴ聖堂/ロドリの原理主義
「啓蒙主義」の時期の建築理論がすべて「タイプ」論だけに立脚していたわけではない。徐々にブルジョワ市民社会が形をなしてくるにつれ、「前-進化論」(蓋然主義的合理主義)的なものの考え方が人々の間に広まってくる。イエズス会に属していたフランスの建築理論家ロージェMarc-Antoine Laugier (1713-69) の建築論注)1は、一般にネオクラシシズムの建築理論の嚆矢とされているもので、17世紀の「バロック」によって「邪道」に陥っていたと考えられていた「古典主義」を建て直そうとする意図から書かれたと言う点では確かに啓蒙主義的な「ネオクラシシズム」の一翼を担うものであるが、しかしカンシィやミリツィアのような「タイプ」的視点は希薄で、むしろ古典主義の手法を合理的な「様式」として認めるというニュアンスが強く、「原始の小屋」から円柱形式が生まれたのであり、それゆえ円柱は壁付きではなく独立として扱われるのでなければならず、壁は付け柱などなしの平坦なものであるべきだといった、素朴な合理主義的原理を盾にとった記述が目立つ。その一方で、彼はゴシックのヴォールト架構の軽やかさと合理性を評価し、必ずしも古典的な空間類型にはこだわらない姿勢をみせる。彼はこうした俗耳に入りやすいテーゼによって、現存する建物の手法的「誤り」を次々と指摘してゆくのであるが、建築における様々な要素を統合してゆく方法については、「高貴なる単純さ」という以外の原理を示すことができなかった。つまるところその建築論は、深いメタフィジックを欠いた擬似合理主義的論理によって、ヴァザーリが言っていたような「マニエラ」(手法)を再整理しようとしたにとどまるといわざるをえない。¶
しかしこのロージェの著作は、かえってその通俗性ゆえに、フランス建築界と具体的な関わりをもつこととなったようにみえる。これが刊行された翌年、王命によりパリの守護聖人である聖ジュヌヴィエーヴのための聖堂(サント・ジュヌヴィエーヴ聖堂)注)2建設の計画が開始され、建築家スフロJacques-Germain Soufflot (1713-80) が設計を任されるが、それはギリシア十字Greek Cross(十字形の各腕の長さが等しい十字形のことを言う。いわゆる十字架のように腕の長さが異なるものはラテン十字Latin Crossと呼ぶ)の平面で中央にクーポラをのせ、ファサードには巨大なギリシア神殿風のポルティコ(portico=玄関構え)を取り付けた姿で、外壁は平坦なまま、内部は均等に建て並べられた独立円柱群が水平な梁を支えているという、それまでの聖堂建築の常識を覆すようなものであった。そしてこれらの様相は、ロージェがその著書の中で力説していた手法にほぼ合致する。果たしてロージェの著作がスフロのデザインに影響を与えていたのかどうかははっきりしないし、ロージェの著作が刊行される十数年前からスフロはそうした手法を試みる機会を窺っていたとみられ、この一致はたまたま時期が重なっていただけとも考えられるが、結果的にロージェの「理論」はこれによって好適な実践例を得たことになり、その権威を高めることとなるのである。¶
こうしたフランスでの動きと並行して、イタリアでも同様な素朴合理主義的建築理論が現われている。ヴェネツィアのフランチェスコ会修道士カルロ・ロドリCarlo Lodoli (1690-1761) の建築理論注)3がそれであるが、 これはロージェの場合よりも更に過激で、古代ギリシアに端を発する「オーダー」が「原始の小屋」すなわち木造の形態から始まりそれが石で模倣されたという歴史的過程注)4がそもそも過ちの始まりであると決め付け、従って古代ギリシア以来の歴史上の建築はすべて、材料の本性とその形態が食い違うという誤りを犯しているのであるから、今後は石造や煉瓦造に最も適した全く別の形態を用いなければならないとするのである。当然のことながらこうした過激な原理主義は、それをそのまま実践しようとするものが現われることがないままに終わったが、しかしこれと同様な論理が、近代になってコンクリートや鉄などの新しい材料をどのように用いるかを考える際に、そっくりそのまま援用されることとなった注)5という点で興味深い。¶
Éssai sur l’ architecture, Paris 1753, 55, Paris (三宅理一訳、「建築試論」、中央公論美術出版、1986)
Ste-Geneviève. スフロの実施案が固まるのは1757年頃で、工事は長引き、その間にはかなりの設計変更がなされ、さらに19世紀ナポレオンの時代になってからも、これを単なる聖堂ではなくすべての歴史上の諸賢の記念廟とするということで、変更が加えられ、名称も「パンテオン」le Panthéon と改められる。そのことはともかく、この建物はフランスにおけるネオクラシシズムの端緒をなすモニュメントとされている。なお、啓蒙主義とその時期のフランスの建築については、Allan Braham, The Architecture of the French Enlightment, Berleley & Los Angels 1980 を参照。
ロドリは自分の理論を著書の形で公刊することをしなかったため、弟子たちの手で以下の2書にまとめられている。
Francesco Algarotti, Saggio sopra l’ architettura, Venezia 1759 ? (「アルガロッティの建築論」、福田晴虔訳、前掲「建築と劇場」所収、中央公論美術出版、1991)
Ann.[Andrea Memmo], Elementi dell’ architettura lodoliana Pt. Prima con alcune notizie spettanti alla vita, e studi del Padre Carlo Lodoli Minore Osservante, Roma 1786; Libri Due, Elementi dell’ architettura lodoliana, o sia l’ arte del fabbricare con solidità scientifica, e con eleganza non capriccioso, Roma
このことについては第3講で触れる。
本講の「6.モダニストの様式観」及び第3講参照。