第1講  建築の歴史と方法
―ウィトルウィウスからヴェントゥーリまで―

2. モデルによるアプローチ
―「マニエラ」Maniera, 様式Style―

1) ヴァザーリと「マニエラ」
「ミメーシス」/ヴァザーリの「列伝」/ミケランジェロの位置付けをめぐって——メディチ家礼拝堂:ビブリオテーカ・ラゥレンツィアーナ:カムピドリオ広場/「マニエラ」から「スタイル」へ/「マニエリスモ」/歴史における本流と逆流


前述のカンシィの記述のなかからも(カンシィ自身は必ずしも明言しているわけではないが)、「モデル」の模写が類似の形態的傾向、つまり「スタイル」を生成させるものであることはたやすく読み取ることができるだろう。もともと「古典主義」はその根本的動機を、古典(あるいは自然)の模写(「ミメーシス」mimēsis = μίμησις)注)1というところに置いていたのであったから、古典主義も「スタイル」の枠から逃れることはできないことになるのだが、ただしその模写の対象となる「モデル」が、規範的な存在(歴史の評価を経て権威が確立された古典、あるいは宇宙的秩序を体現する自然)であることによって、「スタイル」の恣意性を免れているという自覚がそれを支えていたのであった。しかしモデルの規範性が疑われたり、あるいはその規範自体の権威が揺らぐような事態となったときには、古典主義は危機に瀕することとなる。実はカンシィの「タイプ」論は、そうした危機意識の中で、規範的「モデル」を普遍的な「タイプ」と読み替えることで出来上がったものということができるのだが、このような認識は、啓蒙主義という覚醒した近代的な意識によってはじめて可能となったものであり、それ以前の古典主義は、絶えずそうした危機にさらされていて、これに対処しようとして、一方では守旧的なアカデミズム、他方では極端な懐疑主義ないしは相対主義の間を揺れ動いていたのである。

イタリア・ルネサンス期の画家・建築家であるジォルジォ・ヴァザーリGiorgio Vasari(1511-74)は、13世紀末から彼自身が生きていた時代までの間に活躍していたイタリアの画家・彫刻家・建築家たちの伝記をまとめた尨大な「列伝注)2の著作で知られているが、この列伝の企図は、もともとヴァザーリが尊敬していたミケランジェロMichelangelo Buonarrotti (1475-1564) の伝記から発展したもので、当然のことながらミケランジェロの作品と作風に関する記述が最も充実しているのみならず、はじめて西欧の美術を歴史的パースペクティヴを通して通観したということ、さらにそこで展開されている美術作品評価の視点が、従来の建前的な規範主義とは異なるユニークなものとなっていることで注目される。

ミケランジェロは、言うまでもなく、レオナルド、ラッファエッロらとならんでルネサンスの「三大巨匠」の一人とされる存在であり、彫刻・絵画・建築いずれの分野でもそれまでの美術の常識を打ち破るような業績を遺し、すでに生前からきわめて高い評価を受け、「神のごとき大ミケランジェロ」Divino Michelangioloと呼ばれていた。しかしその時代を抜きん出た作風については、いまだに評価の視点の是非をめぐって論議が交わされているほどであり、位置付けが難しい注)3

ヴァザーリは従来ならば古典的規範からの逸脱とされるようなそうしたミケランジェロの手法を、むしろ規範にとらわれない自由さとして高く評価し、その特質を「マニエラ」manieraという言葉で言い表している。彼によれば作家はすべからく独自の「マニエラ」を持つべきであり、そうしたマニエラを磨くことが芸術の目標なのだという。イタリア語の「マニエラ」(英語のmannerに当たる)という言葉は用法が微妙で的確な訳語を充てることは難しいが、通常はむしろ否定的な意味(「くせ」ないし「何々風」の意)をこめて用いられることが多く、たとえば「マニエラ・テデスカ」maniera tedesca (「ドイツ風」の意)というのは、この当時のイタリア人たちが中世以来の北方のスタイルである「ゴシック」様式を軽蔑的に言う言葉であった。それがヴァザーリの場合は、作家の「個性」ないし「独自な手法」という意味合いの肯定的な言葉として用いられている。このことは、必ずしも全面的なものではないにしろ、古典的規範の権威が揺らぎ始めていたことを示すものであり、「タイプ」に代わって「スタイル」を重視する方向が現われたものと見ることができる注)4。ヴァザーリではこれは主として作家個人に属するものとして用いられているが、もともとこの語には「スタイル」と同様なニュアンスがあり、やがてそれが一つの時代の美術の特徴を表わす言葉として用いられるきっかけとなったと考えられるのである。


「ミメーシス」の概念は、アリストテレースがギリシア悲劇のなりたちを論じた「詩学」 Poetica に由来し、これがやがて古典主義芸術全般の目標とされるようになったものである。「詩学」の日本語訳としては岩波文庫の、松浦嘉一訳「詩学」(昭和24)があり、訳文がはなはだ生硬で読みづらいが、当面はこれによるしかない。ギリシア語・英語の対訳本としては Loeb Heinemann の Classic Library 中に、W. Hamilton Fyfe 訳注のもの(Poetics)がある


Le vite dei più eccellenti pittori, scultori ed architetti scritte da Giorgio Vasari pittore Aretino, Firenze 1550 / con aggiunte, 1568 Firenze / ed. Milanesi, 8 voll., Firenze 1878-85 / ed. Sansoni, 1973, Firenze. (部分的邦訳あり。)


ミケランジェロは「彫刻家」を自認し続けていて、終生その仕事に専心することを望んでいたのであるが、教皇をはじめとする有力なパトロンたちに強要されて、仕方なく絵画や建築も手がけることとなったのであった。ここでその活動の全貌を伝えることはできないが、とりあえずヴァザーリの評価の仕方と関わる点について、その建築における主要な二、三の作品を例に挙げて示しておく。ミケランジェロについての研究書は数多いが、建築については、

  • James S. Ackerman, The Architecture of Michelangelo, 2vols, London 1966
  • Bruno Zevi, Paolo Portoghesi, ed., Michelangiolo architetto, Torino 1964

の二点を挙げておくにとどめる。

ミケランジェロは1520年代までは、フィレンツェの大富豪で事実上のフィレンツェの支配者であったメディチ家I Medici の庇護下にあったため、メディチ家関連の建築に数多く関わっている。

メディチ家礼拝堂 Cappella medicea (Sagrestia Nuova), presso S. Lorenzo, Firenze, 1521-34 は、ほぼ一世紀前に最初のルネサンス建築家とされるブルネッレスキFilippo Brunelleschi (1377-1446. その事績については第6講参照)がメディチ家の菩提寺として設計していたサン・ロレンツォ聖堂の、北翼部にある新聖器室(「サグレスティア・ヌォヴァ」Sagrestia Nuova)内部をメディチ家の私的な礼拝堂に改造したもの。ミケランジェロの建築における事実上の処女作。彫刻と建築が一体化したような密度の高い空間で、建築の細部の形態や収まりが古典建築様式の約束事を破るような自在な変形を蒙っており、その結果、建築各部(とくに出入り口やブラインド・ウィンドゥの枠など)や、それらによって包まれる空間自体も、はちきれるような力を感じさせる異常な緊張感をはらむこととなっている。

ラウレンツィアーナ図書館 Biblioteca Laurenziana, presso S. Lorenzo, Firenze, 1524 -. これもサン・ロレンツォ聖堂に付属する建物で、聖堂南側の修道院回廊を囲む建物の一棟階上を、メディチ家の収蔵する貴重な古写本のコレクションを収蔵・展覧するための施設に改造したもの(この種の目的に沿って計画された施設としては最初の例)。「ラウレンツィアーナ」という呼称は、ロレンツォをラテン語風に読み替えたもの(it., Lorenzo = lat. Laurentius)。この時期、ミケランジェロはローマで仕事をすることが多かったため、彼がどこまでこの建物の実施に関わったか不明の点もあり、閲覧室へ導く前室の大階段は、のちにアムマナーティBartolomeo Ammanati (1511-92) の手になるものだが、この建物のためのミケランジェロのスケッチがかなり遺されており、それ(と書庫——ミケランジェロのスケッチでは三角形平面であった)以外はほぼミケランジェロのスキーム通りに実現したと考えられる。 閲覧室の閲覧机や椅子などの造り付け家具もすべてミケランジェロが設計した。ここでは彫刻は配置されておらず、純建築的表現であるが、まるで井戸のように深い前室の異常な空間比例、同じく前室壁面を区切る円柱が壁面から深く後退した窪みのなかに収められていたり、またその円柱を支えるような形で巨大な渦巻き型持ち送り(「スクロール」scroll=通常は古典建築では開口部上部のまぐさなど軽い部材を支えるものとして用いられ、柱を支えるような表現はミケランジェロ以前には例がない)がとりつけられている様子、複雑に幾つもの枠が重ねあわされたような閲覧室への入り口の家型飾り枠(「エディキュラ」ediculaという)、閲覧室内家具の異様な重厚さ、天井の飾り模様と全く同じものが床面でも繰り返されたりしてているなど、古典建築の約束事が至るところで破られている。ミケランジェロはこの他にもブルネッレスキが案を遺さないままに終わった聖堂ファサードの設計も委嘱され、そのための木製模型がのこっているが、これは実現せずに終わった。

カムピドリオ広場 Piazza del Campidoglio, Roma, 1538 -. 古代ローマの中心的神殿があったカピトリウムCapitoliumの丘(イタリア語ではカムピドリオCampidoglio)に中世以来設けられていたローマ市議会の議事堂(「パラッツォ・セナトリオ」Palazzo Senatorio. 古代ローマの建物である「タブラリウム」Tablariumの上に建っている)のファサードを付け替え、前面に中央部を楕円形に縁取った広場を設け、それを両側から楔形に挟むように文書館(「パラッツォ・デイ・コンセルヴァトリ」Palazzo dei Conservatori)とパラッツォ・ヌォヴォPal. Nuovoを配置する。工事実施はいずれの建物も別の工匠の手に委ねられ、北側のパラッツォ・ヌォヴォはミケランジェロの死後にようやく完成した。議事堂前面の壮大な外部階段、広場の楕円形(中央部が少し盛り上がるように造られている。この中央にはかつてラテラン宮殿の前にあった古代ローマのマルクス・アルレリウス帝のブロンズ製騎馬像が置かれている)、文書館とパラッツォ・ヌォヴォのファサードに取り付けられた付け柱が上下層を貫いている(「ジャイアント・オーダー」giant orderと呼ぶ)こと、広場から市街の中心街路「コルソ」Corsoへ降りてゆくスロープが下へ行くほど先細りになるなど、ミケランジェロ以前には見られなかった独特の手法で構成されており、不思議な力感に富む動きを孕んだ造形となっている。

このほかミケランジェロの建築作品としてはヴァティカンのサン・ピエトロ聖堂 San Pietro Vaticano クーポラ(円屋根)が最も大規模のものとして有名であるが、これについては別の機会に譲る。


1930年代になって、美術史界ではにわかにこの「マニエラ 」の語が脚光を浴びることとなる。それはまさにミケランジェロを代表とする1520年前後を境にしたルネサンス美術の変質(反古典主義ないし非規範主義の傾向)を言い表わすのに、この言葉がふさわしいと考えられたためで、「ルネサンス」の枠内にありながら故意の規範逸脱ないしはルネサンス的理想の拒否とみられるような傾向を示す美術を、「マニエリズモ」Manierismo (英語では「マナリズム」Mannerism. ドイツ語ではManierismus)と呼ぶという了解がこれまでほぼ学界に定着している。これは後で触れるように、19世紀の美術史学の体系を創り上げたドイツのヴェルフリンが、ミケランジェロのスタイルを「バロック」の前期的現象と位置付けていたために、「ルネサンス」と「バロック」とのスタイル区分の境界が曖昧となっていたことを修正しようとしたもので、特に1950年代から60年代にかけて、この用語によってこの時期(いわゆる「後期ルネサンス」期)の美術の傾向を説明しようとする動きが盛んであった。そうした考え方を代表する著作としてはハウザーの「マニエリスムス」Arnold Hauser, Der Manierismus. Die Krise der Renaissance und der moderne Kunst, München 1964 が挙げられるが、しかしハウザーの論法が典型的に示すごとく、本来は様式による時代区分を精密にする目的で導入されたはずのこの用語が、逆にいつの時代にもありうる反正統的な精神の動きを表わすものとして解釈され、超歴史的概念となってしまって、かえって時代区分が不明確になるという皮肉な現象を惹き起こしている。また表面的には古典的規範から逸脱するかのごとく装うために、「マニエリズモ」の範疇にいれられているもののなかにも、実は古典主義的理念の裏返しの表現であるようなケースもある。表層的な観察だけから安易にこのようなレッテルを貼り付けてしまう危険性には、充分すぎるほどの注意が必要である。

しかし「マニエリズモ」という用語の当否はともかくとして、ルネサンス期において、一般に「ルネサンス的」とされる理想主義や正統主義とは相反するような動きが見られたことは確かであり、時代の中には常にそうした「楯の両面」が同時に存在する。「ゴシック」の時代だからすべてが通念的なゴシック風一色で塗りつぶされているはずだとするような単純な考え方は、歴史の中では禁物である。18世紀イタリアの思想家ヴィーコGianbattista Vico (1668-1744) は、その著「新科学」 La Scienza nuova, 1720 (清水幾太郎編「ヴィーコ」、中央公論社、1979年)の中で、歴史の中には「本流」corrente と「逆流」controcorrente が同時並存するものであると指摘している。そしてこれらは「スタイル」というような概念で切り分けることができない、それとはレヴェルの異なる問題である。ルネサンス期における「反ルネサンス的」傾向を、「マニエリズモ」とは異なる観点から捉えた論考としては、Eugenio Battisti, L’Anti Rinascimento, Milano 1989 があり(まさにヴィーコ的思想を検証して見せたもの)、これはルネサンス研究者にとって見過ごすことのできない重要な業績であるが、残念ながらまだ邦訳されていないし、その内容を本格的に紹介した日本語の論説も見当たらない。


prof.Fの
西洋建築史講義

index
§1.
建築の歴史と方法
ウィトルウィウスからヴェントゥーリまで
0.
はじめに
タイプとスタイル
1.
2.
モデルによるアプローチ
「マニエラ」Maniera, 様式Style
1)
「ミメーシス」/ヴァザーリの「列伝」/ミケランジェロの位置付けをめぐって——メディチ家礼拝堂:ビブリオテーカ・ラゥレンツィアーナ:カムピドリオ広場/「マニエラ」から「スタイル」へ/「マニエリスモ」/歴史における本流と逆流
2)
ゲーテとストラスブール大聖堂とエルヴィン・フォン・シュタインバッハ/ゲーテとパッラーディオ——「イタリア紀行」/シュレーゲルとドイツ・ロマン主義/ヴィクトル・ユゴーとノートルダム・ド・パリ
3.
4.
5.
6.
§2.
§3.
構造物としての建築(1)
§4.
構造物としての建築(2)
§5.
建築と都市
§6.
建築と絵画
§7.
建築と文学
§8.
建築と政治
§9.
宗教と建築
§10.
社会制度・文化と建築
§11.
遊びと建築
§12.
建築と建築技術者
§13.
建築とユートピア
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ウロボロス建築抄:Prof.Fの口演録